その後、ソ連の戦車設計思想は、「数量で敵を圧倒する」という成功体験に過剰適応して、配備される戦場、どのような戦略体系、戦術方法のなかに位置づけるかという問題には無頓着だったように見える。
多くの戦史家・軍事史家のあいだでは、リェーニンの哲学理論のなかに「量から質への転化」――もともとは、フリードリッヒ・エンゲルスが『E.デューリング氏と哲学の終焉』で提起した視点――の命題が独り歩きして、「量を拡大すれば質的な強みになる」という単純な発想が兵器生産にもおよんだ、と見られている。
「数量で圧倒」という視点が前面に出たため、搭乗する戦車兵への配慮が一貫して欠落することになった。内部の快適性――不快性や狭隘性、苦痛の除去――、操縦し易さや主砲装填・照準操作の性能、命中率、排煙装置などついては、等閑視された。
こうした設計思想が生み出したT-54/55は低く丸い車高形状で被弾性能はまあまあいいけれども、車内空間は狭くて、戦車兵には大きな苦痛を与え、しかも主砲の照準精度は低く、装填装置も鈍重だった。照準精度が低い、発射準備時間が長い、排煙装置の機能が悪いという主砲を、狭くて不快な車内で重いストレスを受ける戦車兵が扱うのだから、実戦訓練での命中率は悲惨なものになった。
数量で圧倒するという思想で製造されたから、1955年にワルシャワ条約同盟が結成されてから、東欧諸国全域に配備するため大量生産された。その数、6万台以上といわれる。戦車史上、最も大量に生産された戦車だ。
ところが、1960年代にアラブ諸国とイスラエルとの戦争・戦闘で実戦投入されることになった。結果は悲惨なものだった。まさに「鉄の棺桶」「鉄の墓標」となったという。
T-62もまた同じ設計思想の展開線上で、改良が加えられて開発されたが、大きな進歩は達成できなかった。主砲射撃の命中精度は10%未満だという。それどころか、実戦ではT-54/55、T-62の命中率は3%未満ではないかと見られている。ほとんど鉄屑である。
T-54/55が大量に展開したのは、1968年「プラハの春」でチェコ市民運動の弾圧・鎮圧のため、ソ連・ワルシャワ同盟軍が出動したときだった。しかし、非武装・無抵抗の市民たちや建物に向けてわずかに主砲を威嚇射撃した程度で、ほとんどは機銃射撃だったようだ。戦車戦への投入はソ連軍としてはなかった。
使い方としては、市街の主要道路に戦車隊を展開して威嚇するというものだった。重武装した敵軍と交戦するというよりも、数量展開による威嚇効果を狙ったという程度の戦車だったのかもしれない。
この型のソ連戦車は、ソ連が支援するアラブ連合側の主力として、1967年の第3次中東戦争に投入された。イスラエルがブリテンから購入した4台を補修して実戦配備したわずか2台のセンチュリオン戦車に対して、アラブ連合側は200台配備の戦車団――ただし、整備不良や戦車兵の訓練不足で前線にまで到達したのはずっと少なかったらしい。ところが、T-62(若干のT-54/55が配備されてと見られる)は、イスラエル側が設定した「防衛線」を越える前に、戦車隊の大半がイスラエル軍のわずか2台のセンチュリオンによって撃破・大破されてしまった。
このとき、ブリテン陸軍では後継の制式戦車チーフテンが主力となっていて、センチュリオンは主力から外れていたため、イスラエルに提供されたのだった。ということで、チーフテンよりも格段と劣る性能のセンチュリオンによって簡単に撃破されてしまったT-62の実戦性能の評価は暴落した。
結局、T-34-85型を超える性能の戦車は、少なくとも1960年代までは生産できなかったわけだ。それだけ、核技術や航空宇宙産業は別として、閉鎖的なソ連の経済や工業技術が停滞・劣化していたともいえる。
これは、ソ連陸軍では、1970年までは戦車兵の人権や個人としての尊厳、生命などのついては、ほとんど何も考慮されてこなかったことを意味する。一般の市民も人権や尊厳が恐ろしく抑圧されていたのだが、それは兵士の扱いにもおよんでいたわけだ。