〈今思い返すと畏れ多いことなのだが、この吹上御苑を両陛下に案内していただいたことがある。きっかけは、二〇一四年十二月十九日の四回目の懇談の折、終戦時の御前会議の話が出て、半藤さんが「あの防空壕は、今はどうなっているのでしょうか。一度、見てみたいのですが……」と申し上げたことだった。防空壕とは、昭和天皇が終戦のご聖断を下した御前会議が開かれた「大本営地下壕」(御文庫〔おぶんこ〕附属庫)を指している。
陛下はこうおっしゃった。
「だいぶ朽ち果てて、中に入るのは難しいようです。いきなり入ると天井が落ちてきたり、タヌキが出てきたりして危ないんです」
半藤さんは、本誌の編集部員だった一九六五年に『日本のいちばん長い日』を書いて、一九四五(昭和二十)年八月十日と十四日の二回にわたり開かれた御前会議の舞台裏と、その一方で秘かに進んでいた陸軍強硬派のクーデタ計画(宮城〔きゅうじょう〕事件)のことを、当事者の証言をもとに戦後初めて明らかにした。その半藤さんも皇居の中にある大本営地下壕はまだ見たことがなかった。執筆した当時は、地下壕の情報さえほとんどなく調べるのに苦労したらしい。
私たちは陛下の返答をうかがって、「そうですか、それは残念です」とだけ言ったが、陛下は半藤さんのリクエストを覚えていてくださったようで、私たちは次回の懇談時に驚かされることになる〉
昭和史研究家の保阪正康氏は、上皇上皇后両陛下と計6回懇談した際のことを振り返り、「文藝春秋」1月号に続き2月号(1月10日発売、電子版では1月9日公開)でも、そのときの体験を明かしている。
保阪氏の回想は次のように続く。
〈その懇談は二〇一五年二月二十二日に設定された。前回は師走の十九日、今度は両陛下が大変お忙しいお正月を挟んですぐだったので驚いた。
それには理由があった。事前に宮内庁から、
「吹上御苑の梅を見ていただきたいので、運動靴を履いていらしてください」
と連絡があったのだ。皇居で梅見とはなんとぜいたくなことかと思った。このときは半藤夫人の末利子さん、東大教授の加藤陽子さんもいっしょだった。(略)
昼食をごいっしょさせていただいた後、三時くらいまでいつものように懇談が続いた。
「梅を見に行きませんか」
陛下がそうおっしゃったので、両陛下と私たち四人は御所から外に出た。
その日は曇り空の寒い日で最高気温は8℃。枯葉が積もるむき出しの土を踏みしめながら歩いていくと、日陰にはところどころ霜が残っていた。「運動靴で」と言われた意味がようやくわかった。(略)
陛下と美智子さまは並んで先を行かれた。その足は意外なほど速く、ぐんぐん進まれるので、こちらが油断していると置いて行かれてしまう。同行した宮内庁職員と話をしながら歩いたこともあるが、お二人に付いて行くのが精いっぱいだった。
そのうちに道から外れ、枯芝が広がるところに出た。両陛下は歩き続ける。行き先はおっしゃらない。御所からは離れていく方角だった。私たちは「どこに行くのだろう」と思いながら付いて行った。
枯芝の先に古い、いかつい重厚な建物が立っていた。陛下はそこまで来てようやく、
「ここですよ、この前のお話に出ていた防空壕の入口は」
と教えてくれた。草木に覆われた向こうにコンクリートの壁と鉄の扉がわずかに見えた。私と半藤さんは顔を見合わせて、両陛下のお心遣いに感謝した。
陛下は私たちに向って、
「ここで終戦の時の会議が開かれたんですね。今はタヌキが住んでいるらしいですよ」
そう笑顔で言い添えた。
陛下にうながされる形で、私たちは防空壕の入口に近寄った。分厚い鉄とコンクリートで作られた建造物であることは一目でわかった。鉄の扉を触り、鉄格子越しに中を覗いてみたが、その奥がどうなっているのかは暗くてまったく見えなかった。
戦争末期、長野県の松代で大本営移転のための工事が進められたが、それ以前に皇居内に会議ができる大本営の防空設備が必要だとなり、陸軍築城部が建設したのがこの大本営防空壕だった。昭和天皇が空襲を避けるために使われていた住居兼防空施設「御文庫」と地下通路でつながっているので御文庫附属庫とも呼ばれる。この2つをつなぐ地下道は、今はどうなっているのだろうと私の関心は深まった。
私たちはしばらく滞在した後、防空壕の草むす周囲をぐるりと廻って御所に戻った〉
宮内庁はその年の8月、戦後70年の終戦記念日直前にこの防空壕内部の写真を公表する。保阪氏はニュースを聞いて驚いた。そのときの心境を次のように綴る。
〈戦後の大きな節目に合わせた防空壕の公表は、以前から決まっていたことなのかもしれない。ただ、もしかすると、半藤さんが「見たい」と申し上げたことをきっかけに両陛下が公表を考えて下さったのかもしれないとも思えた。防空壕の写真が公表された時、半藤さんが興奮しながら、「お話ししてみるものだなあ」とつぶやいたことが懐かしく思い出される〉